思考の整理箱

何かしらの経験を得たうえで考えたことをツラツラと書いています。とても理屈っぽいです。言うことが二転三転することがあるかもしれませんがご容赦ください。

『友達』やめませんか。

 本日は,私なりに社会へのアンチテーゼをしてみたいと思います。アンチテーゼとは大変かっこよく言ってみたものの簡単に言えば「そのあたりまえっていったい何ですか?」という私なりの問題提起だと思ってもらえば結構です。

 さて,そのアンチテーゼというのがここ数年ずっと考えている「友達って概念をやめませんか。」というものです。

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今の私の「自己論」

 さて,本日は私がこの一年間考えてきたことを少し文章にしてみたいと思います。私は小学生の頃から「自分とは何だろう?」というとても哲学チックな疑問と対峙していきました。そしてそれは今もです。コンビニでアルバイトをやってみてより私は「この固有の存在」として『自分』というものにこだわりを持つようになりました。

 そこで今日は私が思う「自分」というものについて書きます。「自分」というものに対する考えが大きく変わったのは平野啓一郎さんの『空白を満たしなさい』を読んで「分人主義」という考えに出会ってからです。以降私は「自分」というものは他人との関係を通じてしか存在しないという立場をとっています。もう少し,大胆なことを申しますと「本当の自分」というものは存在しない。いいかえれば「アイデンティティ」というものすら存在しないのではないかとこの一年で考えるようになりました。この「アイデンティティ」については内田樹さんの『疲れすぎて眠れない夜のために』の影響が大きいと思います。

 では,「自分」というものを私はどのように考えているかと申しますと,自分というものは「他人との関わり」の中で生じる他人との差異だと考えています。ここでいう他人とは決して人間に関してだけではありません。物体なんかもこの「他人」には含まれます。例えば,Aとは「ここは一緒だけどここは違う。」。Bとは「ここは一緒だけど,ここは違う」。Cとは「Aとは違う部分が一緒だけど,ここが違う。」・・・。というようなことを永遠にしていく中で誰とも相容れない部分が見つかった時に初めてそれを「自分」と呼ぶのではないかと考えています。

 この考えに立ちますと,「自分」というものは「相対的」であるということと「可変物」であるということになります。「相対的」というのたぶんすんなり理解していただけると思います。しかし,「可変物」というのは少し説明を付け加えた方がよさそうですので説明させていただきます。例えば,上記の例でいきますと,この後Dと出会ってAともBともCとも相容れないかった部分がDさんと相容れたしたらそれは私の「自分」の定義からいうと「自分」ではなくなります。そして,A,B,C,Dとも相容れなかった部分が新たな「自分」になるということです。つまり,出会いが増えれば増えるほど「自分」というものが変わっていくという事です。

 これが今の「私」思う「自分」というものの存在についての考えです

「『個』と『集団』」という教員の悩み

 先日,現役教員が集う勉強会に参加させていただいたときに少し,思ったことがありましたのでここで少し書かせていただきます。

 勉強会の内容というのは「特別支教育のこれから」というようなものでありまして,特別支援教育に携わっておられる教員の方々の生の声を聴くと同時に専門家による理論的なお話も聴くといった感じで非常に中身の濃い2時間30分だったのではないかと思います。

 この勉強会で現場の教員のみなさんがおっしゃられたことの中でキーワードになっていたのが「『個』と『集団』」というのがありました。この「『個』と『集団』」という2つの関係性をどのように教室の中で位置づけるのが善いかということを先生方は日々悩まれているようです。この悩みというのはどうでしょうか。私は大変不勉強な者ですので,この悩みを聞いたときにこれは学校教育ならではの悩みだなと思いました。

 少し,話の内容を書かせていただきますと,とある特別支援学校に勤務されておられる先生は自身の学校のことを「○○株式会社」と呼んでいるとおっしゃっていました。どうもその先生いわく,確かに学校教育によって社会から求められる技術や技能といったものを生徒が身に付けることは出来ているから問題はないが,その生徒が本来持っていた個性というものがその技術や技能を身に付けていく中で平坦に均されて最終的にはなくなってしまっているように感じているというようなことをおっしゃっていたと記憶ています。なるほど。大変興味深いお話であります。そして,そのようなことをこの先生からだけではなく,実際に通常学級で生徒を教えておられる教員の口からも出てきていたということがこの問題に学校教育が抱える問題としての普遍性を感じさせます。

 学校という場の定義は「ある共同体における規範やルールを提示する場所」というように私は考えています。ですので,学校教育において現在のように「個性!個性!」と声高に叫んでいるという現状に対しては少し懐疑的であります。なぜなら,学校教育において個性が認められるのはその「提示された規範やルール」に従うことが出来てからというのが前提になっているからです。それ以前にあるその子のもっともっと奥深くにある人とは相容れないモノ(私はこれこそが個性だと思うのですが)に関してはその「提示された規範やルール」に従うことが出来ないのであれば残念ではありますが「異常」というレッテルが貼られてしまいます。そのくせして今の学校教育の現場のように「個性!個性!」と声高に叫ぶのは少し感覚がずれているのではないかと思ってしまいます。

 決して,私は「個人<共同体」と言っているのではありません。そうではなくて,学校教育という現場に置いては『個性』というものはあんまり相容れないのではないかと思うと申し上げたいのです。「もともと人間には『個性』というものがあってね。それはとても大切で,お互いそれを尊重しあいましょうよ。」と謳いあげる一方で,テストの解答は統一しますということに矛盾を感じませんかということです。

 そしてこの矛盾こそが教員の皆さん(特に特別支援に関係している教員の皆さん)のおっしゃる「『個』と『集団』」という問題の根本的な原因なのではないかと思います。

 では,どうすればいいかというお話は長くなりそうなのでまた別の機会に譲りましょう。

中学生にドン引かれても満足している理由。

 今日の学習支援での出来事についてすこし書きたいと思います。今日は,担当の子が来なかったので,ボランティアとしての自由度が比較的高い中一生がいるゾーンに参加させていただきました。そこで僕自身のキャラクター設定を考えて!!とそこにいた中一生に言われたので「しゃあないなぁ」といいながら,軽い絵と生年月日から始まる,諸々の個人情報を公開しながら,自分が小学校の頃に受けた「いじめ体験」を話しました。もちろん僕としては面白い話として,話したつもりですが,残念ながら中一生は少々引いていました。

 内容を簡単に言いますと,小2の時にいじめられていることを当時の担任に言ったら「お前がキモいことするからだ―。」とクラス全員の前で怒鳴られたということと小5の時にサッカー部の先輩が作ったデスノートに後輩唯一僕の名前が書かれていたとうことです。

 まぁ,今考えたら確かに引かれても仕方ないかなぁと思われる内容ですが,今までの経験上大体ウケてきたので少し戸惑いました。たぶん,中学生にとってはこの話は残酷な話として捉えてしまったのでしょう。たしかに残酷と言えば残酷ですが,僕はあんまりこの出来事に関してそのようには感じていません。当時は辛かったと思いますが(あんまり当時のことは憶えていません。),僕の人生の中で,この出来事にはそのような意味づけをしていないのです。ではどういう意味づけをしているか申しますと,いまいちそれもぱっとしません。たぶん,これから,この話をいろんな人にしていく中で,きっと誰かがこの出来事に何かしらの意味づけをしてくれるとおもっています。

 僕は,今日,中学生に引かれてしまったことに対しては後悔しています。なぜなら私は「面白いこと至上主義」の人間だからです。やっぱり最後は笑いに変えたい。しっかり笑いに昇華したい。残念ながら今日はそれが出来なかった。これは非常に後悔しています。しかし,今日の出来ごとにどこか満足している自分もいる。この「満足の中身」が今日僕が伝えたいことです。

 中学生と関わるうえで僕が常に意識していることに「その子の10年,20年先を考えて関わる」ということがあります。どういうことかと申しますと,僕が明日の受験のための勉強を教える先生と化すのであれば僕はボランティアとして学習支援をする必要はないと思っています。そうではなくて,その子の人生の10年,20年先のどこかふとした瞬間に「あっ、あの時あの大学生が....」と思い出してもらえるその瞬間を作るために僕は学習支援をしたいと思っているということです。

 もしかしたら,今日,中一生に話した話はその瞬間を作れたのではないかという淡い期待がもてたという点において,私は中学生に引かれても満足しているのです

僕の思考の土台にある「全肯定」について

さて、今日は何を書こうか。

 

ここ2,3年僕の思考の土台にあるのは「全肯定」というものである。「全部肯定したい!!」という意識である。

僕が中学生の時の卒業文集の中で唯一覚えているものがある。それは「好きな人にはもちろん、嫌いな人にも感謝をしている」という文である。なぜ「嫌いな人にも感謝ができるのか」について「嫌いな人がいるから好きな人の大切さがわかるから」と書いていたと記憶している。当時の僕はこの文章に非常に感銘を受けた。こういう、なんて言ったらいいのかよくわからないが双方とも、しかもそれは相反する感覚のものをしっかり「肯定」している感覚がなんかすごくイイと思った。

 

今日、ある人とLGBTQについて話をさせてもらった。大変勉強になった。その人が言っていたのがもっとLGBTQについて公に言える社会にしていきたいということであった。食べ物の好き嫌いを話す感覚でそういう話ができる社会にしたいということであった。僕はこの人の意見に賛成である。そのための土台としてやはり「全肯定」というものが非常に重要だと思う。

 

「肯定」というのは「容認」とは違う。「認める」というと非常に上目線の感じがする。そうではなくて「受け入れる」のだ。

 

僕はずっと「面白ければなんでもいい」と思って生きてきた。マキタスポーツさんのいうところの「『面白いこと』至上主義」である。なぜそう思って生きてきたかというと自分の中にあるマイナスな部分を「面白さ」というフィルターを通して「笑い」に変えることができればそのマイナスな部分が自分の武器にすることができたからだ。つまり「笑い」のもつ力にずっと助けられてきたのである。そして今、思うのはこの「『面白いこと』至上主義」こそ「全肯定」のための手段として一番なんじゃないかということである。

LGBTQについては専ら「『面白いこと』至上主義」で「全肯定」できることである。たとえば自分と同じ考えの人たちと「やんな?やんな?」「うん。うん。その通りだよ。」って納得しあって終わる会話もそれはそれで面白いかもしれないが、いろんな人がいて、いろんな話が聞ける。それで自分とは考えが相反するけれどもその考えが自分になにか刺激を与えてくれて、自分の視野が広がり他人と共有できるものが増える。そういう現場も絶対に面白い。どちらが面白いかということになれば個人的にはやはり後者の方が断然面白いと思う。そうやって考えるとLGBTQに関してももっと公なものにしていいではないかと思う。そして、「それおもろいやん!」ってお互いに「受け入れ」合えばイイではないかと思う。

 

僕は「全肯定」をするためにいくらでも意見を聞くし、いくらでも考えを変える。そういう変化もまた自分にとって面白いのである。