思考の整理箱

何かしらの経験を得たうえで考えたことをツラツラと書いています。とても理屈っぽいです。言うことが二転三転することがあるかもしれませんがご容赦ください。

「『個』と『集団』」という教員の悩み

 先日,現役教員が集う勉強会に参加させていただいたときに少し,思ったことがありましたのでここで少し書かせていただきます。

 勉強会の内容というのは「特別支教育のこれから」というようなものでありまして,特別支援教育に携わっておられる教員の方々の生の声を聴くと同時に専門家による理論的なお話も聴くといった感じで非常に中身の濃い2時間30分だったのではないかと思います。

 この勉強会で現場の教員のみなさんがおっしゃられたことの中でキーワードになっていたのが「『個』と『集団』」というのがありました。この「『個』と『集団』」という2つの関係性をどのように教室の中で位置づけるのが善いかということを先生方は日々悩まれているようです。この悩みというのはどうでしょうか。私は大変不勉強な者ですので,この悩みを聞いたときにこれは学校教育ならではの悩みだなと思いました。

 少し,話の内容を書かせていただきますと,とある特別支援学校に勤務されておられる先生は自身の学校のことを「○○株式会社」と呼んでいるとおっしゃっていました。どうもその先生いわく,確かに学校教育によって社会から求められる技術や技能といったものを生徒が身に付けることは出来ているから問題はないが,その生徒が本来持っていた個性というものがその技術や技能を身に付けていく中で平坦に均されて最終的にはなくなってしまっているように感じているというようなことをおっしゃっていたと記憶ています。なるほど。大変興味深いお話であります。そして,そのようなことをこの先生からだけではなく,実際に通常学級で生徒を教えておられる教員の口からも出てきていたということがこの問題に学校教育が抱える問題としての普遍性を感じさせます。

 学校という場の定義は「ある共同体における規範やルールを提示する場所」というように私は考えています。ですので,学校教育において現在のように「個性!個性!」と声高に叫んでいるという現状に対しては少し懐疑的であります。なぜなら,学校教育において個性が認められるのはその「提示された規範やルール」に従うことが出来てからというのが前提になっているからです。それ以前にあるその子のもっともっと奥深くにある人とは相容れないモノ(私はこれこそが個性だと思うのですが)に関してはその「提示された規範やルール」に従うことが出来ないのであれば残念ではありますが「異常」というレッテルが貼られてしまいます。そのくせして今の学校教育の現場のように「個性!個性!」と声高に叫ぶのは少し感覚がずれているのではないかと思ってしまいます。

 決して,私は「個人<共同体」と言っているのではありません。そうではなくて,学校教育という現場に置いては『個性』というものはあんまり相容れないのではないかと思うと申し上げたいのです。「もともと人間には『個性』というものがあってね。それはとても大切で,お互いそれを尊重しあいましょうよ。」と謳いあげる一方で,テストの解答は統一しますということに矛盾を感じませんかということです。

 そしてこの矛盾こそが教員の皆さん(特に特別支援に関係している教員の皆さん)のおっしゃる「『個』と『集団』」という問題の根本的な原因なのではないかと思います。

 では,どうすればいいかというお話は長くなりそうなのでまた別の機会に譲りましょう。