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思考の整理箱

何かしらの経験を得たうえで考えたことをツラツラと書いています。とても理屈っぽいです。言うことが二転三転することがあるかもしれませんがご容赦ください。

「ボランティア論」再考

 本日は、正しくタイトル通りのお話をしたいと思います。「ボランティアを再び考えてみよう!!」というお話です。
 ですが、ここでお気づきになる方がいるかもしれませんが、このBLOGの中で過去にボランティアについて語っている投稿は一つもありません。それなのになぜ?いきなり《再》考なのでしょうか。

ボランティアの大衆化

 その話をまずはしたいと思います。今や、ボランティアは『大衆化』されたと言って良いと思います。ボランティアという言葉が世の中に広がり始めたのは阪神・淡路大震災以降だと言われています。それから、昨年でちょうど20年目を迎えた現在、ボランティアはどこに行っても聞くようになりましたし、社会問題(特に国に頼ることのできないたぐいのもの)とセットで聞くことが多くなった言葉になったと感じます。そして、今やとある記事※1で読みましたが、ボランティアをすることは「意識高い系のすることだ」ともいわれるようになったようです。善いことか悪いことかは置いといて。
 このような状況は、社会にとっては大変喜ばしいことだと私は思います。経済の視点で見ますと、日本社会が「資本主義」から一歩抜け出そうとしている良い兆候ではないかと思うし、「自己責任論」が強いこの日本で、「自己責任だけではどうにもならないよね。」という風潮ができ始めている証拠ではないかとも思うのです。
 しかし、一方で「ボランティアの大衆化」には危惧せざるを得ない状況もあると私は思っています。それを端的に言いますとボランティアの『形骸化』という状況です。これは決して、データを取っているわけではないですが、昨年度、私が行ったり、聞いたりしたボランティアの現場のほとんどにこの問題が蔓延っていたように感じます。あくまで、これはまだ私の肌感覚ですが。さて、ここからが本日の本題です。だからこそ、《再》考なのです。今一度、改めて「ボランティア」について“皆で(ここ重要!!)”考えてみようよということなのです。何のため、誰のためのボランティアなのか。

ボランティアの形骸化

 さて、そもそも「ボランティアの形骸化」とは一体どういうことでしょうか。
 私の言う「ボランティアの形骸化」とは、ボランティアは確かにその場に居るし、そのボランティアを受ける、言い方が悪いですが、被支援者は居るものの、その場において何の生産もしていない状況のことです。もう少し、具体的に言いますと、ボランティアに対して「そもそもそこにいる君たちって必要ですか?」「その活動、君たち居なくても成立しちゃうんじゃね?」と言わざるを得ない状況のことです(暴言を吐いてすみません)。
 といっても、そうすると、何をもってその活動に生産性があるということにするかという問題が出てきますが、ミクロな視点で言いますと、ボランティア側の「今日は被支援者(この言い方は好きではないのですが、ここでは、ご容赦ください。)のためにこんなことをやれた。」という自覚とか、被支援者(本当にすみません。)の「今日は、ここに来てあの人にこんなことをしてもらって本当によかった。」という自覚が生まれればこれは、生産性があると見なしていいでしょう。マクロな視点で言いますと、そのボランティアをやっていることの背景にある社会問題への解決への一端になれたという自覚がボランティア側に生まれれば大分、生産性が高いということになると思います。別にこれだけではありません。ボランティアの人や被支援者(何か他に良い言い方を教えてください。)が何をその活動から得ているのか。言い換えれば、生産しているのかということに大変具体的に自覚的になったときにはじめてその場に生産性が生まれるのではないでしょうか。
 そのためには、ボランティア側が「何のため、誰のためにその活動をしているのか?」「その活動の背景にある社会問題とはどのようなことか?」ということや「その社会問題を少しでも良い方向に向かわせるためにどうしたらいいんだろう?」とか、もっと言えば「そもそも私たちのやっているボランティアって何?」ってことなど、もっともっと考えなければなりません。
 ですが、少なくとも、昨年度、僕が行ったり聞いたりしたボランティアの現場の中に上記の生産性の問題について自覚的だった人はそんなにいなかった(もちろん、立派な方もたくさんいました。)。
 ボランティアの存在が社会的に大きくなったと同時に誰もがボランティアをするようになった。私は、この状況がいけないと言っているのではありません。むしろ大歓迎です。そうではなくて、「ボランティアの大衆化」の何が問題かといますと、ボランティアをする人自身が自分の活動について何も考えなくなったということです。そのくせして「ボランティア=意識高い」などというレッテルを貼ったうえで、自分が何のために、誰のために「ボランティア」をして、その活動から結果、どのようなことを得たかを、「何も考えずに」ボランティアについて語っている人が多い。(二度目の暴言、お許しください。というか、他から見たら僕もそのうちの一人になっているかもしれません。)言い換えるならば、「ボランティアしてる自分かっこいい!!」とか「ボランティアしてる自分すごい!!」ってことになっていて、その内実は決められた日時に現場に行って、なんとなく決められた時間をやり過ごしているだけ。
 本当にこれでいいのでしょうか?
 このような状況において、そのボランティア活動に本当に存在価値はあるのでしょうか?
 もう一度、念のため言っておきますが、私は「ボランティアの大衆化」に反対しているわけではありません。そもそも、ボランティアは大衆がするものですし、それがボランティアの良さですから。誰でも出来るハードルの低さ。これが何といってもボランティアの良さです。
ですが、だからこそ、改めて、ボランティアをしている人、各々が「ボランティア」というものを今一度、考え直さなければいけないのではないかとも思うのです。



※1 「意識高い系」で失ったもの ボランティア・政治参加、阻む無力感 (URL: http://withnews.jp/article/f0160402003qq000000000000000W03j10101qq000013222A )