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思考の整理箱

何かしらの経験を得たうえで考えたことをツラツラと書いています。とても理屈っぽいです。言うことが二転三転することがあるかもしれませんがご容赦ください。

「多様性」という言葉へのアンチテーゼ

 ここ最近は、目まぐるしい日々が続いていますが、少し時間が出来ましたので久しぶりにブログを更新します。本日のテーマは「多様性」です。個人的に、この言葉とても好きです。そして、私は「多様性を受け容れられる社会」が理想の社会だと思っています。(特にここ4~5年。)
 ですが、この「多様性」という言葉。現代社会において、良いように利用されまくっているなと感じることがあります。(特にここ1年くらい。)

「みんな違ってみんないい。」

先日、とあるヨットスクールの幼児教育の仕方がネットで話題になりました。「なんてこった!!」「これは、暴力だ!!」「即廃止すべし!!」という主張がある一方で、「あれはあれで意味がある!!」「あれくらいしないとだめなのだ!!」との意見も見受けられました。僕自身の立場は前者でありますが、なんせ私は「多様性を認める」という立場の人間ですので「あれはダメだ!!」といって簡単に切り捨てることもできません。もどかしいところです。あの教育方法も、もし、「多様性を認める」という立場に立つのであれば「受容」しなければならないのではないでしょうか。
 例えば、僕が活動している「貧困」と言われる問題に対して「自己責任論」と言われる考え方を唱える方がおられます。「貧困はその人自身が招いた結果だ。そんなものにどうして支援などしなくてはならないのか。」と。このような論調は決して少なくありません。ですが、私は「いやいや、貧困とは社会の構造によって生まれたものでしょうが。だから、社会の構造を変えなればダメでしょう。」と主張したい。ですが、私はここでも「多様性を認める」という立場に立ちますので前者の意見を「あれはダメだ!」と言って簡単に切り捨ていることが出来ません。ただ、「自己責任論」を唱える人たちが描く社会が本当にいい社会になるのかどうかと言われると私は甚だ懐疑的になってしまいます。
 さて、「多様性」という言葉がここまで社会に流布するようになったのは、つい最近です。高度経済成長期が終わり、日本が安定したかのように見えたこの時代です。一度は皆さんもこの言葉を聞いたことがあるのではないでしょうか。
 「みんな違ってみんないい。」
 この言葉は現代の学校教育で広く使われてきたということは事実であり、また、現代社会を見る際に欠かせないキーワードの1つです。

「みんな違ってみんないい。」的個人主義

 この言葉は僕の好きな金子みすゞさんの『わたしと小鳥と鈴と』という詩の一節です。僕はこの詩を小学校の国語で習い感動したことを憶えています。ですが、この言葉は少しでも理解を誤るととても「冷淡」な意味になってしまうのではないかと思うのです。その最たる例が以下のようなものではないでしょうか。
 「みんなそれそれ違うのだから、お互い好きにやったらいいじゃないか。それでいいじゃないか。だから僕も好きにさせてもらうよ。」と。
 このように理解してしまうと。あの「みんな違ってみんないい。」がどこか「冷淡」なモノになってしまいます。言うまでもなく、それは、きっと金子みすゞさんの真意ではないと思います。これこそが本日のテーマである現代社会で「多様性」という言葉が良いように利用されている部分ではないかと思うのです。
 「多様性を認める」と言った時に私たちは「お互い好きにやろうぜ。お互い迷惑かけないしさ。お互い自分らしくね。」と考えます。しかし、この考えの裏には「その変わりお互い好きにやって大きな事故が起きても、お互い責任は取らないよ。」という思惑が潜んでいるのではないでしょうか。「多様性を認める」というのは「ご自由にどうぞと言ってお互い知らないフリをしあう。」ということでしょうか。僕は違うと思います。
 極端な例を出しますが、もし「多様性を認める」ということを上記のように解釈した場合、「たとえ隣人が殺人を犯していても、自分に被害さえなければ素知らぬ顔を出来る」ということになってしまうからです。「多様性を認める」ということを「ご自由にどうぞ。」と解釈すると下手をしたらそのような状況をも生み出しかねない(実際に社会はそのような方向に向いていると私は危惧していますが。)。そして、そういう人に限って、自分に何かしらの被害が生じた場合のみ不服申し立てをするのです。ですが、よく考えてみれば、「ご自由にどうぞ。」の社会ではその不服申し立て自体も言うまでもなく、素知らぬ顔をされてしまいます。

「多様性を認める」=ある種の「葛藤」

 では、「多様性を認める」ということはいったいどういうことなのでしょうか。
 それは「自分と他者との間で葛藤を抱える」ということではないでしょうか。
 例えば、最初に挙げた例でしたら、「あの教育は反対だ‼」という自分の意見と「あれはあれで必要だ‼」という他者の意見。この両者はいわゆる価値に基づく判断ですので、双方の価値の間でどちらにも加担することなく自らの中で闘わせるというこです。いいですか。ここでは答えを出すことが目的ではありませんよ。あくまで闘わせるのです。「なぜ自分がそう思うのか。」「なぜ相手がそう思うのか。」を徹底的に考え、その他者との「折り合い点」を見つけるということです。
 貧困問題の例でしたら「貧困は自己責任論だ!」という他者の意見と「貧困は社会の構造によって生まれたのだ!」という自分の意見。この両者は先ほどと違い事実判断ですので、双方のその現象に対する見方の間でどちらにも加担することなく自分の中で闘わせる。それは、決して数学の答えを見つける事とは違います。「相手がその現象のどこを見ているのか。」「自分はその現象のどこを見ているのか。」を徹底的に考え、その見方の違いを理解するということです。

終わりに

 現代社会に流布している「多様性を認める」という言葉にどこか私が懐疑的なのは、そこに「自己と他者との間の葛藤」がないからです。多様性を認めるというのは実はとても、大変で自らを苦しめることだってあるということ。だってそうでしょう?時に、自らの価値観が、ひっくり返されることもあるわけですから。そして、そういう可能性への覚悟を持たねば「多様性を認める」などということは出来ません。
 このことを今一度、確認した上で、それでも僕は「多様性」を重んじる側の人間であり続けたいという宣誓をして、この文章を終えたいと思います。