思考の整理箱

何かしらの経験を得たうえで考えたことをツラツラと書いています。とても理屈っぽいです。言うことが二転三転することがあるかもしれませんがご容赦ください。

「過渡期」を生きる僕へ

 久しぶりの更新です。前回の更新から2か月以上空いているようです。というか本日は、どうも成人の日のようですね。僕は、新・成人ですがこうやって地元にも帰らず家で一人文章を書いています。
 さて、早速ですが、本題に入ります。

「転換期」とか「過渡期」とやらについて

 今、僕たちが生きている社会というのは「転換期」とか「過渡期」と言われる時代に突入した社会です。「転換期」や「過渡期」の社会というのは、内田樹の言葉を借りると以下のような社会のことです。

「転換期」というのは、まさしくそのような「あって当たり前」の制度文物が安定的な基礎を失って、あるいは瓦解し、あるいは状況に適応すべく劇的に変貌する局面のことです。※1

 ここでいう「あって当たり前」の制度文物というのは決して、法律や経済のシステム、政治制度という大きなものだけではありません。私たちのもっともっと身近なところの言語化されていない制度文物というのも含まれます。分かりやすい例をあげれば、「大学さえ出ていれば、将来は安定している。」という前提や「女性は家事育児担当。男性は外でお仕事を担当。」というような意識はしていないけれど「当たり前だよね。」と僕たちが思っているものも内田樹の言うような状況にあります。
 そして、「転換期」とか「過渡期」と言われる社会の特徴は、「旧・制度文物」も通用するし、「多様な新・制度文物」も通用するというところです。例えば、「偏差値の高い高校に進学して、そのまま偏差値の高い大学に進学して、そのまま大企業に入るって安定した道を送る」という1昔前なら当たり前とされ、誰もが羨むような人生。もちろん、今の社会でもこのような人生を送ることができる人もいます。一方で、「偏差値の大学に進学はせず、高校生の時に自ら起業して現在大金持ちになった」という人もいる。「SNSを利用して、自らの1日を50円で売って生活をする」という人もいる。
 このような状況が意味するところは、「旧・制度文物」が今ある「制度文物」のOne of them になったということです。だから、「『多様な』新・制度文物」なのです。その新しく生まれた「制度文物」もまたそれらのOne of them なのです。このような状況を宮台真司は「社会全体の『共通前提』がなくなった状態」と言っています。『共通前提』とは「これが正しいよね。」「これが当たり前じゃん。」と” 皆が”思っている制度文物のことです。それがなくなったのです。「どれもが正しい可能性があり、どれもが間違っている可能性がある」ということです。

『共通前提』がない社会

 例えば、日本でもここ数年話題になっている「貧困」の話なんかは上記の最たる例ではないでしょうか。「一億総中流時代」だった日本のころは、皆が皆、似たような生活をしていました。でも、その「中流層」が解体し、明らかに貧富の差が拡大していく中で、皆が皆、似たような生活をしているわけではありません。僕は、「子どもの貧困」と言われる社会問題の現場にいますから、日本がそのような状況にあることを実感をもってお伝えできます。父がいない子ども。父ではなくて「彼氏」がいる子ども。母はいるけどほぼ毎日母と会話がない子ども。母がいない子ども。両親ともいる子ども。など。親に焦点を当てただけでもまぁまぁ例が出て来ます。つまり、家族形態1つとってもあらゆる家庭環境で生活している子どもがいるということです。「両親共ににいます。」という「共通前提」はここでは全く通用しません。
 日本の社会がこのような状況にある今、一体、僕はどうしたらいいのでしょうか。

少し、話を変えてみましょう。

 つい、先日、知り合いから招待をされてとあるサークルの演奏会に行ってきました。音楽としてのレベルや質は僕は分かりません。そんなことよりも、僕がその場にいてずっと考えていたことは、「あっ。この人たちと俺が生きている世界は明らかに違う。」ということでした。実は、全く同じことをよく、そのサークルに入っている人(今回、僕を招待してくれた人)からも言われます。「長澤はとうちは生きている世界が違うよね~。」と。演奏会に行ってその言葉の意味がようやくわかったのです。確かに、生きている世界がその人と僕とでは違いました。このような状況のことを宮台真司は「島宇宙」と形容しています。同じ場所に、異なる価値観をもつ集団が存在しているのに、それぞれの集団に交流がない状態のことをいいます。コミュニティ同士ではありませんが、僕にとって、あの演奏会は「島宇宙」と化していたのかもしれません。でも、このような、状況は社会全体でも起きています。
 このような状況に対して、一体、僕は何ができるのでしょうか。

結局、僕は「海を見ること」しかできない

 僕は、ここで、1つの文章を思い出しました。それは、2011年の立教新座高校の卒業生に送る校長メッセージ「時に海を見よ。」です。
 少し、長いですがその一部を以下に引用します。

大学に行くとは、「海を見る自由」を得るためなのではないか。
言葉を変えるならば、「立ち止まる自由」を得るためではないかと思う。現実を直視する自由だと言い換えてもいい。
(中略)
時に、孤独を直視せよ。海原の前に一人立て。自分の夢が何であるか。海に向かって問え。青春とは、孤独を直視することなのだ。直視の自由を得ることなのだ。大学に行くということの豊潤さを、自由の時に変えるのだ。自己が管理する時間を、ダイナミックに手中におさめよ。流れに任せて、時間の空費にうつつを抜かすな。
いかなる困難に出会おうとも、自己を直視すること以外に道はない。
いかに悲しみの涙の淵に沈もうとも、それを直視することの他に我々にすべはない。
海を見つめ。大海に出よ。嵐にたけり狂っていても海に出よ。※2

 正しく、「転換期」とか「過渡期」において、僕たちが出来ることは「海を見る」ことではないかと思うのです。つまり、それは、「立ち止まる」というこです。「立ち止まって、少し考える」ということです。一体、「自らの立脚点」はどこなのかを。「自らの立脚点」を考えるということ。それは、自らがどのような価値観の基で思考し、行動しているのか。そして、その価値観はどのようにして生成されたのか。を鑑みるということです。そして、それを考えるためには、周りの状況(身近な他者から社会構造までを含めた。) がどのようにあるのか、どのようにあったのかを考えるしかありません。
 「共通前提」がない時代だからこそ、「島宇宙」と化している社会だからこそ、自らが寄って立っている前提にいかに自覚的になるかということが求められますし、他者が寄って立っている前提を知る必要があるのではないか。そう思うのです。


※1 内田樹・編『転換期を生きるきみたちへ』(2016)
※2 引用URL: http://niiza.rikkyo.ac.jp/news/2011/03/8549/