思考の整理箱

何かしらの経験を得たうえで考えたことをツラツラと書いています。とても理屈っぽいです。言うことが二転三転することがあるかもしれませんがご容赦ください。

就活をしている知り合いの自己実現病について

  お久しぶりです。約3カ月ぶりの投稿のようです。今週から大学の授業が始まり、と同時に2年間お世話になったバイトをやめて現在無職の大学生活(年休を貯めていたおかげで一か月は仕事がなくても生活ができそうです。)を送りながら、貯めに貯めまくった本を読むかと思いきや、図書館に行っては気になる本を借りてきて読んでいる現在です。

 最近は、「共依存」と言われる精神的な症状に興味がありそこに関連して家族関係に関する本を少々と若者を精神医学や心理学の観点から述べられている本を少々読んでいます。この僕が(臨床心理学なんてクソくらえだ!!と言って臨床心理学をお勉強中の同回生と喧嘩をしまくっていた僕が)心理学の図書コーナーの前で真剣に本を吟味しているのですから、人生、何があるかわかりません。

社会学という学問の基本的スタンスについて

 そうです。(といっても大半の人は、は?という感じでしょうが。ここには色んな背景があるのです。)僕は、社会学という学問分野で築き上げられた手法を自らの研究の中心に置こうということに最近なりました。ほんとに最近です。基本的には社会構築主義という立場に立つことが多い社会学社会構築主義。難しい言葉です。僕もイマイチよくわかっていません。言葉だけ知っているので使ってみたのです。カッコいいかなと思って。そういうお年頃なのです。

 社会構築主義。あるいは、社会構成主義といいますと、「世の中のありとあらゆる現象というのは、どうも社会(そこに生活する人々)によってつくられているもの」なんだという視点で社会を見ようぜという考え方でよかったでしょうか(あんまり自信がないのです。)。どっちかというと、社会学は社会の側(いうならば、個人よりもその集合体を第三者的な視点)から世の中のありとあらゆる現象を見るということでよろしかったでしょうか(とにかく自身がありません。)。近年では、桜井厚さんや谷富夫さんといった方々をはじめ個人の「語り」に注目した研究方法も開発・発展してはいますが、その「語り」も結局はその人が生きていた社会の構造と結びつけて考えるようです(この手法をライフヒストリー研究とかいい、最近、流行になってきていますね。最近では、岸政彦さんなどが有名です。)。

 あぁ、たぶんあっています。社会学の視点(しいていは、社会構築主義の視点)を最も分かりやすく言い表している例は、障害における「社会モデル」ではないでしょうか。多くの人は障害というものを考える際、「医療モデル」とか「個人モデル」という考え方に即して考えます。例えば、目が見えない人がいるとしましょう。多くの人は「その人は、目が見えないから障害者なんだ。」と考えるかもしれません。だから、「その人の目を見えるようにしてあげましょう!」というのが「医療モデル」とか「個人モデル」と言われる見方です。一方で、「社会モデル」から障害について見ると、「その人が生活する場所に、移動手段に階段しかなかったり、障害物が多かったりするから(つまり、生活をし辛い状況があるから)その人は障害者になっているのだ。」となります。だから、「その人にとって弊害となるようなものを失くしてよりよい、生活空間を目指しましょう!」となる。近年、盛んに巷で聞くようになったインクルーシブ教育などは障害の「社会モデル」という見方を出発点にしているはずです。たぶん。

就活中の知り合いが自己実現病にかかっていた件について

 社会の側に焦点を当てて社会を見るというのは、実は、あんまり実社会ではメジャーな見方ではありません。先日も、ある知り合い(5年来の知り合いですが。)と話していましたら「就活しててさ、自分が何をしたいのかわからないんでだよね。」「周り(大学の先生やインターン先の大人は)はさ、『本当に自分がしたいことをしろ』とか言ってくるの。うちは、全然自分がしたいことがわからないの。」などと言っていまいした。

 あぁ、「これが、俗にいう自己実現か。」と思いながら、聞いていたわけですが。僕みたいな捻くれ者は、そもそも自己って何?とか思ってしまうのです。だってさ、「仕事=自己実現」という考え方自体が新自由主義が世界中に流行って、それ以降の学校教育が作り上げてきた幻想なんだよね、と。話は飛ぶけど「自己実現」を唱えたエリクソンですら、その達成は一部の限られた人間にしかできないことだと言っているはずで、ほとんどの人が、生理的欲求云云かんぬんの「所属欲求」までいけばいい方だと言っていたはずだよ?とか思うのです。それを、現代の学校教育ではキャリア教育という名のもと「さぁ、皆、自己実現をしましょう!」といい、そのスタートとして「まずは、自分の好きなことを見つけましょう!」と自分探しってなものをさせ、それがない人に対しては「可哀想な子。」というレッテルを貼ってきたんだよぉ。このようなことを何十年もの間、学校教育しいては、社会全体で善いとされてきた結果、「自分のやりたいことがわからない」という「路頭に迷った自分探しっ子」が増えてしまったであってさ。とかその人に言いたい。

 だからね。君。仕事には、養老孟司さんが言っていると思うけど、「社会の穴を埋める作業」という側面もあるんだよ。自分のやりたいことがないなら、まずは、そういう視点でさ、就活をスタートしてみたら?ねぇねぇ。君~。とかその人に言う。(結局、言っちゃうのですが。)これが、社会の側に焦点を当てて社会を見るということです。でも、先ほど言いました通り、このような見方はメジャーではないため、その知り合いにこんなことを言っても「はぁ。でね、この企業とこの企業でさ、、、」という話に戻ってしまうのです。相手には、「また、長澤が変なことを言っている」くらいに思われているのだろうな思いながら同じ話を何回でもその人にするわけです。その内、通じる日が来るかと思って。(「こねぇよ!」みたいなね。これこそ、自己実現的な考え方ですからね。)

社会学の凄さ、あるいは面白さについて

 社会学って学問が蓄積してきたノウハウってその一端に触れただけでも本当にすごいなと思うわけです。こないだ、お世話になっている人と話していたら社会構築主義の面白さって「あらゆる視点を提供し、認められるというところなんだよね。」ってなことを言っていたと思います(うろ覚えでごめんなさい。)あぁ、なるほどなと。社会って、決して一つではないのかもしれません。一人ひとりが見ている視点、その集合体が社会なのだと。そのように考えると上記で述べたような桜井厚さんや谷富夫さんなどが行ってきたライフヒストリーと言われる「個人の“語り”」に焦点を当てた研究が社会学として成立するのにも合点がいきます。

 大切だなぁと思うのは、先の例で言えば、本人が「自己実現を仕事によって達成しようとしていること」がそもそも社会によってつくられたもの(価値観)なのだ(こういうのを「社会的現実」とかいうそうですが。)ということを自覚した上で、「仕事とは自己実現だから、仕事によって自己実現を達成しよう」と選択しているかどうかなのです。結果は同じでもそのプロセスは全く違うわけです。プロセスにおいて、どれくらいの選択肢(可能性)があった(アマルティア・センのいうところのケイパビリティという考えに近いのですが。)のかということ。この選択肢(可能性)を増やしてくれるのが社会学という学問のもつ凄さ、あるいは面白さの1つなのかもしれません。