思考の整理箱

何かしらの経験を得たうえで考えたことをツラツラと書いています。とても理屈っぽいです。言うことが二転三転することがあるかもしれませんがご容赦ください。

新年度のあいさつに代えて~社会問題のリアリティをどうやって伝えるか。~

 一週間ぶりの投稿ですね。あぁ、なんて有意義な一週間を送っているのだろうか。と、私は悦に浸っています。

 ここ一年くらい、ずっとずっと考えていることがあります。それは、「リアリティをどうやって他者に伝えるか。」ということです。これは、難題ですよ。とても難題です。マイノリティーに関する活動をしている人たちはよく(僕の関わっていた団体でもそうなんですが。)「この問題を自分ごとにしましょう!」とおっしゃるんです。その理念は本当に素晴らしい。そもそも、マイノリティーに関する社会問題って、社会の多くの人々がその人々(「当事者」とか言われる人々)の困りごとや考えていることを他人ごとだと思っているから、マイノリティーの人々が困っていても助けてもらえないし、相手にしてもらえないから生じているわけです。

マジックワード化しつつある「自分ごと」という言葉について

 ですから、あらゆるマイノリティーに関する社会問題というのは、確かに、多くの人々がその問題を「自分ごとに」してくれれば解決しそうです。

 いや、ちょっと待てよ。そもそも「自分ごとにするとは何ねんろ?」。ちょっと、考えてみて下さい。これも、また難題です。「自分ごとにする」って皆さん、言いますけど、「自分ごとにする」っていったいどんなことを言うんですか?「自分ごとにする」というのは、例えばこういうことでしょうか。

 路上で生活をしているおじさんのことを自分ごとにするとは、自分も路上生活をしてみて、そのおじいさんの気持ちになってみるということですか?あるいは、経済的に困難な家庭に生まれ育った子どものことを自分ごとにするとは、大人ならば幼少期に戻って経済的に困難な家庭で生まれ育ちなおして、その子どもらの気持ちになってみるということですか?

 いや~、そんなことを全員出来るわけがない。もし、出来るのならば、ぜひやってほしい。巷にあふれる問題を「自分ごとにする」とは一体どういうことなのでしょうか?どうも最近、「自分ごと」って言葉が、マジックワード(とりあえず、言っておけばOKでしょ?的なニュアンスを抱えた言葉)になりつつあるのではないか。そんな危機感を、僕は抱いています。

 もし、先に書いたような意味で「自分ごとにする」ということを言っているのであれば、それは、そんな簡単にできることじゃありません。だって、仲のいい友達であろうと、どれだけセックスのしているカップルであろうと、どれだけ信仰深い信者とその教祖であろうと、お互いがいかなる状況に置かれていると「感じていて」、その状況下で何を「思っているか」なんてことは共有のしようがありませんし、分かりっこないのです。もちろん、共有するための努力はできますよ。

 そんなことをいうと、反論が来そうですね。「言葉があるではないか。」と。「私たちは言葉を使って、コミュニケーションをしているから、相手が気持ちや想いを言葉にしてくれたら分かるはずだ!」ってな反論が飛んできそうです。いやいや、本当ですか。それ。自分の気持ちや感情を正確にいい当てた言葉ってそんな簡単に見つかりますか。「建て前」とやらの存在を忘れてはいませんか。(ごめんなさい。僕は、「言葉」というものをあんまり信頼をしていないのです。)言葉を介したコミュニケーションとは、あくまで、お互いの気持ちや想いを共有、あるいは理解するための努力であって、決して、そのコミュニケーションをしたからといってお互いを理解できるわけではありません。

 そのように考えますと、ちょっとは、巷で流布する「自分ごとにする」という言葉のもつ軽薄さみたいなものがちょっとは分かってもらえるのではないでしょうか。つまり、他者のことなんぞ僕たちはそう簡単に理解はできないということ。ゆえに、他者理解を前提にする「自分ごとにする」という行為は成り立たないということです。

 はい、僕は悲しい人間です。お許し下さい。


■「自分ごと」を再定義してみる

 ここで、僕は「自分ごとにする」という言葉の定義を根本から変えてやろうと思います。傲慢でごめんなさい。「自分ごとにする」こととは。

 そうですね。こうしましょう。

 「自分ごとにするとは、自らがマイノリティーであるかもしれない、あるいは今後、マイノリティーになるかもしれないという可能性を知ると同時に、自分の周りにもマイノリティーで苦しんでいる人がいるかもしれないという可能性を知ることによって、まだ見ぬマイノリティーの人々に目を向けられるようにする。」というのはいかがでしょうか。

 長い!定義が長い!すみません。重要なのは、あくまで“社会問題”を「自分ごとにする」ことだということです。つまり、他者をそのまま自分に置き換えるということではないのです。

 そこで、ですよ。ちょっと考えてみてください。社会問題と言われることに自らの貴重な時間を割いて、取り組んでいる熱心な活動家の皆さん!!あなた方が、まだ見ぬ他者に以上の定義をもってして皆さんが取り組んでいる社会問題を「自分ごとにしてもらう」にはどうしたらいいでしょうか。僕は、この答えが全く分からないまま、この一年が過ぎました。全くです。本当に。全く分からないのです。


■「社会問題のリアリティ」をどうやって伝えるか。~まだ、答えは分からぬ。~

 そして、それは、最初に言った、「リアリティをどうやって他者に伝えるか。という問題とものすごくリンクします。自分が取り組んでいる社会問題のことを相手に伝えるときに、どうしても熱心に喋りすぎるせいか、相手に「この人の言っている社会問題は、この人のやっている活動先の特別な問題だ。」と受け取られることがあります。

 僕でしたら、「子どもの貧困」について伝えようとしても、「長澤くんが行っている活動先の子どもの話でしょ?」と。これでは、全くもって、相手に「子どもの貧困」という社会問題を自分ごとにはしてもらえません。あるいは、「今、日本の6人に1人が子どもの貧困なんですよ。」と言っても「リアリティを伴った理解」をしてもらえません。

 「リアリティを伴った理解」とは「その社会問題について、もしかしたら、自分もその社会問題の一端を担っているかもしれない。あるいは今後、その社会問題の影響を自分が受けることになるかもしれないという可能性を知ると同時に、自分の周りにその社会問題によって苦しんでいる人がいるかもしれないという可能性を知ってもらう。」ということです。

 そのためにはどうしたらいいのでしょうか。いや~、答えが見つかりませんね。そんなものは、もしかしたら、無いのかもしれません。今年度もそんなことを考えながらちょっとだけ活動したり、時々、本を読んだり、ちょっくら人に会いに行ったりします。

 今年度も皆さん、どうぞよろしくお願いします。(今更感大あり。)