思考の整理箱

何かしらの経験を得たうえで考えたことをツラツラと書いています。とても理屈っぽいです。言うことが二転三転することがあるかもしれませんがご容赦ください。

とある学習支援の研修会でボツにした原稿

 例年、行っている福祉関係者に向けた学習支援事業*1の説明会で、私がコーディネーターとしてかかわっている学習会の様子を報告してほしいとのことで書いた原稿だけどあまり相手の要求にハマらずボツにした。その一部をこちらにて成仏しようと思う。
 ちなみに、私は、いろんな経緯から京都市の若者支援の組織が行っている学習支援の学習支援コーディネーターというのを2年半程度務めさせていただいている。

 以下、その原稿の一部。
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1.はじめに

〈省略:自己紹介〉
 最初に、学習支援コーディネーターという役回りについて説明します。学習支援コーディネーターというのは、単に現場で中学生と関わるだけではなく、学習会という〈場〉*2 の設定をやっている人くらいの意味です。主には、ボランティアが抱える葛藤の聞き役に回ったり、中学生やボランティアが希望する教材を用意したりするなどしています。時に、中学生とボランティアの間に入り、円滑なコミュニケーションが促進されるようにサポートをすることもあります。
 今日、皆さんにお話するのは、学習会という〈場〉で何が起きているのかというお話です。とりわけ学習会という極めてニッチな場所で行われているコミュニケーションの肌触り(それは、学習会という〈場〉の雰囲気)のようなものです。それを少しでもつかんでいただけたら幸いです。
 結論を先取りして言うと、学習会が〈場〉として立ち現れるとき、そこでおこなわれている人々の相互行為は、きわめて多様であり、その相互行為を通じて生じている「学び」は1つの定義に還元することが「できない」ということです。そして、私は、この定義の困難さこそが、京都市ユースサービス協会が行っている学習支援の肝であるように思うのです。

2.〈省略〉:学習会の概要
3.学習会が〈場〉として立ち現れるとき

 さて、学習会で中学生が会場に到着したときに、ボランティアが中学生に尋ねることは、『今日何するぅ~?』です。決して、ここで、『今日、何の‘勉強’する?』とは聞かないということがポイントです。そうすると、ある中学生は、『宿題が…(汗)』と言って、おもむろにカバンから数学や英語のプリントを取り出して解き始めたり(と言っても、隣には、ほとんどの場合、答えが置いてあります。)、『えぇ~、どうしよっかなぁ。あんなぁ、昨日なぁ、部活でなぁ。』と近況報告を始めたりします。時には、『勉強めんどいねん。ちょ、カードゲームしようや!』という中学生もいます。つまり、学習会において、中学生がすることを決めるのは、ボランティアではないのです。その時、その場で、中学生がやりたいなと思ったことにボランティアが寄り添うのです。これは、本学習会が大切にしていることの1つです。そのための第一声が『今日、なにするぅ~?』なのです。気が付けば、ボランティアは、時に、中学生の勉強を見守り、勉強を教え、時に、ともに遊び、雑談をする。たまに、一緒に昼寝をすることもありました。
 しかし、上記のような状態は、ボランティアからするとちょっと不安です。テスト週間明けに、その不安が現実となるわけです。テスト週間前後は、多くのボランティアが、『○○さんも勉強を…』と言い出します。一生懸命、教材案を考えて、一緒にやったり、少しだけ勉強道具をもってくるように促してみたりと試行錯誤をします。でも、中学生は、ボランティアの思い通りになってくれるわけもなく、テスト週間もそれ以外の日も関係なく、各々の主体性のおもむくままに学習会という〈場〉を過ごしていくのです。こうした風景が1年間を通して見られる場所、それが学習会という〈場〉です。そして、このような風景は、教育や福祉の「素人」*3がスタッフとしてかかわっているからこそ達成されるもののように思います。つまり、ボランティアは自分の実践に自信が「ない」のです。彼らにとって頼れるものは、自分たちの20年そこらの人生経験とわずかな知識、そして、その場にいる中学生からの微細な反応ぐらいです。*4 ここに、ボランティアもまた「学習者」として学習会という〈場〉に参画している様子が垣間見えます。

4.おわりに

 以上で見てきたように、学習会が1つの〈場〉として立ち現れてくるとき、その〈場〉には、ボランティアが中学生に勉強を教えるという一方向の関係があるのではなく、ボランティアの側もまた自分の目の前にいる中学生の要望(それを「主体性」ということもできる。)に応えようと必死に努力する中で、「学び」、「成長する」という双方向の関係が生じているのです。冒頭に申し上げた学習会における「学び」の定義の多様性や困難さは、この「学び」の双方向性にこそ起因するのものだということなのです。

〈謝辞〉
本報告を作成するうえで、これまでの私の学習支援経験で出会った多くの中学生とボランティアのみなさんから多くの示唆を得たこと、また、そこでの経験を言語化するにあたり水野篤夫氏(京都市ユースサービス協会)が『ユースシンポジウム2019報告書 学習支援の現在地:10年目の成果とこれからを考える』に寄稿した文章から多くの示唆を受けたことをここに付記し、感謝の意を表す。

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 以上、原稿の一部。学習支援事業では「居場所」という言葉が用いられがちだけど*5、各自治体が運営する学習支援を取り巻く「制度」、「人」(ボランティアと対象者の層)の固有性に着目して、上手にその「居場所」のディテールを記述していかないと、いつの間にか他の事業と一緒くたにされてその価値がないがしろにされていくように思う。その点、注記で取り上げた京都市ユースサービス協会が昨年度発行した『報告書』と『文集』は参考になるように思っている。
 また、私自身は、この〈場〉の動態的な部分に大変興味があり、その〈場〉のダイナミズムに巻き込まれていく中で、多くの学びを得ていく中学生やボランティアにはいつも感心させられるばかりである。

*1:ここでは、生活困窮者自立支援制度に基づく生活困窮世帯/生活保護世帯を対象とした高校進学をサポートする学習支援事業のことを指す。

*2:本報告では、中学生とボランティアスタッフがいる‘だけ’の場所とその両者が様々なコミュニケーション(相互行為)を通じてお互いに「変化」(あるいは、「学び」や「成長」)していくことができる場を区別し、後者の意味において「学習会」の場所を表現する際に〈場〉と記述することにする。

*3:ここでの「素人」という言葉は、ボランティアが教員免許や社会福祉士(あるいは、それに類する資格)といったそれぞれの領域の専門性を高めるための体系だった教育/訓練を受けていないことや現場経験が専門家にくらべて少ないことを意味するために用いている。ただ、その未教育/未訓練/未経験についての価値判断(良いか悪いか)を論じることをここでは目的とはしていない。

*4:もし、これが専門家だったらこれまで蓄積してきた「経験知/形式知」に裏付けられた指標から自らの実践を評価することができ、被支援者との関係性の中で支援の道筋を立てられるように思う。

*5:例えば、成澤(2019)「学習と居場所のディレンマ」などが挙げられる。