思考の整理箱

何かしらの経験を得たうえで考えたことをツラツラと書いています。とても理屈っぽいです。言うことが二転三転することがあるかもしれませんがご容赦ください。

コミュニケーションという名の相互行為的な何かについて。

 本日は、「コミュニケーションという名の相互行為的な何かについて」ということについて話してみたいと思います。ここ最近、色んな人と大雑把な括りでの「コミュニケーション」について話す中で軌道修正しながら思考していることです。内容は、以前、このブログで「友達」という概念を捨ててしまえというような趣旨の文章を書いたことがありました。それを、もう少し、掘り下げて記したという感じです。

「カテゴライズ」という何かについて

 僕は物心がついたころからずっと「カテゴライズ」の問題に苦しめられてきました。例えば、「友達」、「親友」という訳の分からぬ区分もそうですし(これは「他人」との関係性におけるカテゴライズです。)、「子ども」、「大人」(これは「個人」の外見上、あるいは内面上の特徴としてのカテゴライズです。)という区分けもそうです。自分の活動フィールドに関して言えば、「貧」、「富」(これも「個人」の抱える問題としてのカテゴライズです。)という区分もそうです。今まで(学問の世界以外のいわゆる「日常」で)、私はこれらの区分をしっかり運用できている人を見たことがありません。
 例えば、「『友達』って何?」と隣にいる人に聴いてみる。すると、相手はドギマギして「え。なんか~」と拙い言葉で応えてくれる。さらに「じゃあ、『親友』との違いは?」とか「AさんとBさんは同じ『友達』なんだよね?じゃあ、なんでAさんとは××するのに、Bさんとはしないの?」とか追いつめてみると、最終的には「そんなことどうでもよくない?」って言われて終わります。それか陰で、「あいつ面倒なやつだ。」と言われます。実際に僕もそんなことを言われたことが今までの人生で数えきれないくらいありました。たぶん、相手は自分たちが使っている1つ1つの「概念」言うならば「言葉」というものに対してそこまで真剣に考えたことがないのかもしれません。
 僕は、そういった現状にはもちろん、「カテゴライズ」されて「当てはめられる」ことに違和感をもっています。例えば、昔だったら「子どもなのに・・・」とか、今だったら「学生なのに・・・」と何かカテゴライズされてコミュニケーションをとられるとやっぱり何か変なのです。「もっと僕を見て!!」と思ってしまうのです。
 この夏、視覚障害をもっている小中高生を対象にした1泊2日のキャンプにボランティアとして参加をしました。非常に興味深いことが多くありました。その中でも、特に僕の印象に残っている出来事に僕と同じ班だった高校生が僕に対して「晴眼者の方が・・・」と言ったという出来事です。念のため、決してその高校生は僕に悪意等があって言ったわけではありません。会話の流れの中でそのようなことを言ったのです。その時、「あ、なんか変な感じ。」と心の中で思いました。
 この違和感は「子どもなのに・・・」とか「学生なのに・・・」とか「俺たち友達だよな!」と言われたときの違和感とそっくりでした。そして、僕は、この違和感にこそ「コミュニケーションという相互行為的何か」における大切なことが隠れているように思うのです。
 その違和感は、いわゆる「分類(カテゴライズ)」された上で、すなわち何らかの「バイアス」がかかったうえでのコミュニケーションをしているということに対する違和感だったのです。

理想の「コミュニケーション」について

 上記の「晴眼者と言われた」話を例にしますと、「視覚障害者」としての高校生と「晴眼者」としての僕でのコミュニケーションをしていたということです。それは、 僕が理想とする「個人」と「個人」のコミュニケーションではないのです。僕は「友達がいません!!(中2の時)」という宣言をして以降、「個人」と「個人」のコミュニケーションを理想としてきました。なぜなら、「カテゴライズ」した者同士のコミュニケーションでは真のコミュニケーションが出来ないからです。真のコミュニケーションとは何か。それは「僕」と「Aさん」がコミュニケーションをとることでしか生まれないものを「僕」と「Aさん」のコミュニケーションによって生むということです。その「僕」と「Aさん」がコミュニケーションをとることでしか生まれないものこそがいわゆる「自己」といわれるものではないかと思うのです。
 「自己」は内在的なモノであると同時に外在的なモノでもあります。ここでいう「自己」とは後者の方です。しかし、私は、外在的な「自己」が生まれなければ、内在的な「自己」は生まれないと思います。そうです。現代の巷にあふれる自己啓発本の類のものや心理学をちょっとかじった人、「自己責任論」を唱える人の多くは内在的な「自己」ばかり強調します。例えば、性格診断とか、「自分を変えれば・・・・人生が変わる!」とか言われる類のものです。そこでは、その一歩前の「なぜその『自己(ここでは内在的な)』が生まれたか」ということころは無視されているのです。
 少し脱線しましたが、話を続けますと、私は、現代社会を生きる人たちに最も足りていない能力は「他者」を創りだす能力だと思います。ここでいう「他者」とは自らに「存在の根拠」を与えてくれるモノのことです。「存在の根拠」とはいかなる時に与えられるのでしょうか。それは、「あなたと私は違うのだから、あなたが私にとっては必要です。」というメッセージを自らが勝手に感じた時です。「勝手に」というところが重要です。相手がどう思っているかはまた別の次元の話です。そして、その際に重要なのは、「あなた」と「私」の差異は他の誰との差異ともかぶらないということです。つまり、「あなた」と「私」の違いが他の「Aさん」と「私」や「Bさん」と「私」との違いとは被らないということです。もちろん、「Aさん」と「私」や「Bさん」と「私」との違いとかぶるところもあるとは思いますが、それはそれとしてということです。ここでいう「他者」とは決して「人」のことだけを指すのではありません。「犬」でも「猫」でも「壁」でもいいのです。そして、「他者」を創りだす能力は内在的な「自己」にばかり目を向けていては身に付きません。その性格や心の変化がどのように生成されるのかというところに目を向けなければ「他者」は生まれません。「他者」を生み出さなければ「自己(ここでは外在的な)」は生まれません。それは、内在的な「自己」も生まれないということを意味します。
 このような能力がなぜ必要かと言いますと、一つに時代が大きく変わったというのがあります。少し前の時代においては「他者」を創りだす能力はあんまり必要ではありませんでした。なぜなら、社会全体で「みんな一緒になる」ことが求められていたからです。学校教育などはその典型です。宮台真司が近代学校教育のモデルは「軍隊」と「監獄」だ言っているように、「均質で同質な労働力」の育成こそが近代学校教育の最大の目的だったのです。そこに「他者」との「差異」というものは必要なかったわけです。それは社会全体でもそうです。「3種の神器」や「3C」をみんなが持っていることの方が重要だったのです。今の時代はそうではありません。今の時代は「みんな違ってみんないい」時代になったのです。ですが、一方で、「みんな違ってみんないい」時代に入ったとたんに「他人ついては素知らぬ顔をする人」が増えてしまったのです。

さて、話を戻しましょう。

 「カテゴライズ」の問題でした。「視覚障害者」と「晴眼者」という「カテゴライズ」上のコミュニケーションではお互いの能力という点においてのみのコミュニケーションになってしまい、真の意味での「コミュニケーション」は生まれません。なぜなら、その「コミュニケーション」において両者は言い換えるのなら「目が見えない人」と「目が見える人」なら誰でも良いからです。これでは自分自身の「存在の根拠」を与えられることはありません。
 では、「個人」と「個人」の「コミュニケーション」とはいかなるものかと言うと以下の図を見てください。
f:id:longnetsu:20160916185724p:plain
 現在ある「カテゴライズ」されたもの―例えば、「大人」とか「子ども」など―をその「個人」の「要素」として考えるということです。ここでは便宜上、「カテゴライズ」という言葉を使っていますが、「カテゴライズ」されたものというのは結果として当てはまるものと考えてください。なぜなら、その「要素」というのは「他者」との「差異」によってしか生まれないからです。「あっ、Aさんと自分はここが違うんだ。」と気づいた時に初めて生まれるのです。その違いには確かに「目が見える/見えない」という違いもあるでしょうし、「身長が高い/低い」といった能力的な違いもあるでしょう。そうじゃない「リベラル/保守」、「左翼/右翼」という思想的な違いもあると思います。しかし、これらの差異を感じることは単純な「カテゴライズ」されたものだけでは出来ないことがほとんどです。それは、関係性におけるカテゴライズも一緒です。「友達だから・・・」とか「教師だから・・・」という「カテゴライズ」をしてしまっては、真のコミュニケーションは出来ません。だから、一度、すべての「カテゴライズ」から解き放たれて「無」になった状態で「他者」を創りだしたうえで、お互いに自分を構成する「要素」を見つけていくこと大切だと思うのです。

最後に

 また、昨今、「肩書き」というものへの信用が低下しています。それは、今の世の中がいわゆる「転換期」だからです。昨日までの「社長」が明日からも「社長」である時代ではなくなりましたし、昨日までの「教師」は明日からの「教師」である時代ではなくなったということです。そのような時代において僕たちは、「カテゴライズ」されたもの同士の関係性よりも、「個人」と「個人」の関係性を構築していくことの方がより大切になっているのではないでしょうか。
 あと、以上の議論より考えなければならないのはそもそも「他者」との比較対象が「自分」に備わっていなければ「Aさんとの違い」は生まれないのではないかというものです。つまり、大本の大本を探ればそこにこそ「本当の自分」があるということです。それはどうでしょか。私は違うと思います。またその話は別の機会にしましょう。
 ちなみに、学問の世界ではどんどん新しい「概念」を創っていけばいいと思います。なぜなら、それは一つの社会を切り取るためであって「他者」とのコミュニケーションのためではないからです。