思考の整理箱

何かしらの経験を得たうえで考えたことをツラツラと書いています。とても理屈っぽいです。言うことが二転三転することがあるかもしれませんがご容赦ください。

「It's All Right.」って最高じゃね?

 今日はこの半年間大変お世話になった方の追いコンでございました。その人は他大学の4回生でありながら大変親しくさせていただいたので,こちらとしてはもうこれはこれは頭が上がりません。まず,ここに感謝の意を表します。本当にありがとうございました。この人との出会いは僕の中ではとても意味深いものでありまして,今日の追いコンでもその人宛のメッセージにも同じことを言い,書かせてもらいました。ここにも,少し書かせていただきますと,私は京都に来てから,半年間とても突っ走っていました(もちろん今もです。)。特に夏休みはその名を返上するかの如くはたらきまくっていました。学習支援が週に4回で,バイトは週に5回。ほぼ朝4時起きという生活を送っていました。その夏休みにその方と学習支援の繫がりで会って,その日の帰りの電車を待つホームで自分の今の思いをなりふり構わず語ったら一言僕に「大丈夫だよ」と言ってくれたのです。それは京都に来て初めて先輩から言われた「大丈夫だよ」だったので,その一言にどこか安心できた記憶があります。その時以来,その人には大変失礼なことも覚悟で色々言いたい放題言わせていただきました。本当に感謝してもしきれません。その度に僕に一言「大丈夫だよ」と言っていただきました。もしかしたら,僕の話が面倒くさかっただけかもしれませんが。さて,ここからが本日の本題です。熱が冷めないうちに語っておきましょう。

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組織における「代替可能性」と「代替不可能性」

 

 本日は,先日とある先輩と話していて気づいたことを文章にしたいと思います。この半年間,僕は2つの組織に所属していました。2つとも立ち上げと同時に参画させてもらい初期メンバーとして未だに参画させていただいています。大変ありがたいことです。両方とも学習支援のボランティアのですが,この2つの組織には大きな違いがあります。それは,新規立ち上げ時に母団体がいたかいなかったです。簡単に言えば,組織としての枠組み(運営の仕方など)をある程度最初から与えられていたかいなかったかという違いです。運営をしてみるとわかりますが,これは本当に大きな違いです。この違いによって生じるさらなる違いというのはその組織の「持続率」とでもいいましょうか。すなわち,今後どれくらいその組織が続くかということです。もちろん今後何が起こるか分からないので,実際には何十年経ってみないと分かりませんが,現状としての実感としては全く違います。前者の方が(枠組みを与えられていた方が)圧倒的に実感としての「持続率」が大きい。これは当たり前と言えば当たり前なのですが,私にとっては大きな発見でした。今日,私が書きたいことはこの「持続率」と関連しています。というのも,組織を10年,20年さらには「半永久的」に持続可能なものにさせたいのであれば「組織の人員」は誰しもが「代替可能な存在」でなければなりません。さて,ここからが今日の本題です。

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『友達』やめませんか。

 本日は,私なりに社会へのアンチテーゼをしてみたいと思います。アンチテーゼとは大変かっこよく言ってみたものの簡単に言えば「そのあたりまえっていったい何ですか?」という私なりの問題提起だと思ってもらえば結構です。

 さて,そのアンチテーゼというのがここ数年ずっと考えている「友達って概念をやめませんか。」というものです。

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今の私の「自己論」

 さて,本日は私がこの一年間考えてきたことを少し文章にしてみたいと思います。私は小学生の頃から「自分とは何だろう?」というとても哲学チックな疑問と対峙していきました。そしてそれは今もです。コンビニでアルバイトをやってみてより私は「この固有の存在」として『自分』というものにこだわりを持つようになりました。

 そこで今日は私が思う「自分」というものについて書きます。「自分」というものに対する考えが大きく変わったのは平野啓一郎さんの『空白を満たしなさい』を読んで「分人主義」という考えに出会ってからです。以降私は「自分」というものは他人との関係を通じてしか存在しないという立場をとっています。もう少し,大胆なことを申しますと「本当の自分」というものは存在しない。いいかえれば「アイデンティティ」というものすら存在しないのではないかとこの一年で考えるようになりました。この「アイデンティティ」については内田樹さんの『疲れすぎて眠れない夜のために』の影響が大きいと思います。

 では,「自分」というものを私はどのように考えているかと申しますと,自分というものは「他人との関わり」の中で生じる他人との差異だと考えています。ここでいう他人とは決して人間に関してだけではありません。物体なんかもこの「他人」には含まれます。例えば,Aとは「ここは一緒だけどここは違う。」。Bとは「ここは一緒だけど,ここは違う」。Cとは「Aとは違う部分が一緒だけど,ここが違う。」・・・。というようなことを永遠にしていく中で誰とも相容れない部分が見つかった時に初めてそれを「自分」と呼ぶのではないかと考えています。

 この考えに立ちますと,「自分」というものは「相対的」であるということと「可変物」であるということになります。「相対的」というのたぶんすんなり理解していただけると思います。しかし,「可変物」というのは少し説明を付け加えた方がよさそうですので説明させていただきます。例えば,上記の例でいきますと,この後Dと出会ってAともBともCとも相容れないかった部分がDさんと相容れたしたらそれは私の「自分」の定義からいうと「自分」ではなくなります。そして,A,B,C,Dとも相容れなかった部分が新たな「自分」になるということです。つまり,出会いが増えれば増えるほど「自分」というものが変わっていくという事です。

 これが今の「私」思う「自分」というものの存在についての考えです

「『個』と『集団』」という教員の悩み

 先日,現役教員が集う勉強会に参加させていただいたときに少し,思ったことがありましたのでここで少し書かせていただきます。

 勉強会の内容というのは「特別支教育のこれから」というようなものでありまして,特別支援教育に携わっておられる教員の方々の生の声を聴くと同時に専門家による理論的なお話も聴くといった感じで非常に中身の濃い2時間30分だったのではないかと思います。

 この勉強会で現場の教員のみなさんがおっしゃられたことの中でキーワードになっていたのが「『個』と『集団』」というのがありました。この「『個』と『集団』」という2つの関係性をどのように教室の中で位置づけるのが善いかということを先生方は日々悩まれているようです。この悩みというのはどうでしょうか。私は大変不勉強な者ですので,この悩みを聞いたときにこれは学校教育ならではの悩みだなと思いました。

 少し,話の内容を書かせていただきますと,とある特別支援学校に勤務されておられる先生は自身の学校のことを「○○株式会社」と呼んでいるとおっしゃっていました。どうもその先生いわく,確かに学校教育によって社会から求められる技術や技能といったものを生徒が身に付けることは出来ているから問題はないが,その生徒が本来持っていた個性というものがその技術や技能を身に付けていく中で平坦に均されて最終的にはなくなってしまっているように感じているというようなことをおっしゃっていたと記憶ています。なるほど。大変興味深いお話であります。そして,そのようなことをこの先生からだけではなく,実際に通常学級で生徒を教えておられる教員の口からも出てきていたということがこの問題に学校教育が抱える問題としての普遍性を感じさせます。

 学校という場の定義は「ある共同体における規範やルールを提示する場所」というように私は考えています。ですので,学校教育において現在のように「個性!個性!」と声高に叫んでいるという現状に対しては少し懐疑的であります。なぜなら,学校教育において個性が認められるのはその「提示された規範やルール」に従うことが出来てからというのが前提になっているからです。それ以前にあるその子のもっともっと奥深くにある人とは相容れないモノ(私はこれこそが個性だと思うのですが)に関してはその「提示された規範やルール」に従うことが出来ないのであれば残念ではありますが「異常」というレッテルが貼られてしまいます。そのくせして今の学校教育の現場のように「個性!個性!」と声高に叫ぶのは少し感覚がずれているのではないかと思ってしまいます。

 決して,私は「個人<共同体」と言っているのではありません。そうではなくて,学校教育という現場に置いては『個性』というものはあんまり相容れないのではないかと思うと申し上げたいのです。「もともと人間には『個性』というものがあってね。それはとても大切で,お互いそれを尊重しあいましょうよ。」と謳いあげる一方で,テストの解答は統一しますということに矛盾を感じませんかということです。

 そしてこの矛盾こそが教員の皆さん(特に特別支援に関係している教員の皆さん)のおっしゃる「『個』と『集団』」という問題の根本的な原因なのではないかと思います。

 では,どうすればいいかというお話は長くなりそうなのでまた別の機会に譲りましょう。